文化・芸術

2007年5月29日 (火)

東京ミッドタウンのポップアート

東京ミッドタウン 六本木まで足を伸ばしたので、東京ミッドタウンへ行って来た。まだまだ人が多い。東洋系の旅行客らしき人々が日本語以外の言語を話しているのに大勢出くわす。秋葉原のヨドバシとその点は変わらない場所だ。彼等の意識も変わらない様だ。かつてここに他の建物があった頃、そこにいた人々が、彼等の国との境界に神経を尖らせていたなんて、誰も思ってもみないだろうな。


エレベータで上に行く。構造は複雑だが、地方のららぽーとなどに比べれば狭く感じた。空いている場所を見つけた。ポップアートが飾ってあった。アンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ。消費社会の象徴的アートが、現代の最も貪欲な消費と金儲けを目論む場所に飾られている。何とも皮肉なほど似つかわしい。


けれども・・それに眼を向ける人は少ないのだ。人と音楽の醸し出す喧騒の中で、色と形の狂乱と洪水の絵達は、あまりにも静かに壁におさまっていた。


にほんブログ村 本ブログへ


貴方の仮面を身に着けてHP

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月26日 (木)

最期 藤田まこと

「必殺」「はぐれ刑事」の藤田まことの自伝。


たぶん録音を文字起こしして、編集したのだろう。語り口がそういう感じがする。生い立ち、役者になったきっかけから役者としての人生、最後は近況や家族についての三部構成になっている。


淡々として、ひょうひょうとした中に、したたかさもある。「役者はミステリアスは部分が必要」と本人は言っているが、生身を使う職業だから、どうしても出て来るものがある。それが演技にも味になっているのだろう。


舞台を観た。板の上にいるのがしっくりくる、手馴れた風合いの演技だった。それがテレビではなく、舞台やドサ回りで身につけたものなのだろう。カメラではなく、お客さんと向き合う事を長年して来た人の。


七十という年齢であるし、大劇場では声が通り難い事もあったが、舞台の上にいる時、人目を引きつける、嫌味のない自然体な姿は、やっぱり並の役者ではない物を感じた。


決して人が良いばかりの人ではないと思う。自堕落と放縦を自覚しながら厳しい見極めが出来る目と覚悟はある人だと思う。役者は役者をやっていないと「役者の顔」でなくなると彼は言っている。それはどんな職業でも、どんな立場でもそうだろう。それぞれに「顔」がある。


私は今どんな顔をしているのだろうか・・鏡を見たいような見たくないような。


にほんブログ村 本ブログへ


貴方の仮面を身に着けてHP

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月24日 (火)

名画感応術

横尾忠則は、文章にもはっきりとした色彩がある。


画家が絵を語る。それは自身の作業を通しての視線でもあるから、単に観る立場とは異なる。それが面白い。「作品に全部言いたい事は描いてある」と語りたがらない画家もいる。それもひとつの姿勢である。私はどちらも好ましい。


絵には謎も秘密もあるだろうが、描いた本人すら気がつかない”何か”が、存在している時がある。それを横尾忠則はこの本の中で何度も示唆している。ニューエイジだのオカルトだののブームを通り過ぎて来た現代では、神や天使などと言ってしまえば陳腐になるが、それでも啓示はあるのだと、繰り返し語っている。


無の世界に有をなす・・・


確かに絵を描くという事は、上の如く下も、神のすなる技を人間が真似ている行為なのだろう。白い紙には神がいる。



名画感応術


にほんブログ村 本ブログへ


貴方の仮面を身に着けてHP

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 1日 (木)

池田満寿夫 絵画を語る

この人は何という目をして絵を観ているのだろう・・


一枚の油絵の前で、その人はずっと立っていた。特に目立った風貌でも服装でもない。けれども彼の周囲の空気には見えない何かが煌いていた。それが私が出会った最初で最後の池田満寿夫だった。


着物を着て文豪気取りや大家の真似事をしたり、派手なファッションでアーティストのふりをしなくても、芸術家である人はそういう顔をしているものだ。この情報化の時代では自己宣伝も大切なのだろうが、空虚で安物の氾濫はそこから始まっている。


本の中で、ピカソについてのページが多く割かれている。それだけ強い思いをピカソに感じていたのだろう。尽きせぬエネルギー、話題性、スキャンダルも含めて、奔放に変貌していく彼の世界・・一人で何倍も生きてしまった人と同じ世界に生きるのは大変な事だろうと、門外漢でも感じるのだ。


読んでいると声が聞こえ、色が見えて来る。描く様に書き、書く様に描いていたのだと思った。「絵の中から文学を排除する」・・その意味を正確に理解する程の感性を持たぬ私にはそう思えた。


画家達に対する思い・・専門的な事は解らぬけれど、そこに何を感じたか、見える気がするのだ。彼が亡くなってからもう十年が過ぎてしまうのか。良きパートナーであった佐藤陽子の後書きには、まだ生々しい慟哭がある。


壊れていくのは君のほうだ。


確かに、彼の精神は壊れずに、今もこの本に、この世界のそこかしこに息づいている。私は壊れる前に、少しでも彼の観た世界を観る事が出来るのだろうか。


にほんブログ村 本ブログへ



貴方の仮面を身に着けてHP

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 1日 (月)

フェルメール全点踏破の旅

世界中に散らばるフェルメールの絵画を訪ね歩く旅。豊富なカラー写真が眺めているだけでも楽しい本である。


それぞれの場所の克明な記述、絵の背景等の解説のあるが・・どこか歯がゆさや引っかかりを感じる事が多いのは、著者が最初に「自分は絵の専門家ではない」と白旗を掲げてしまっている所以だろう。

確かにキリスト教的な背景は、信仰を持たない者には分かり難い。しかし真に優れた絵とは、例え教義を知らなくとも、その絵の前に立てば、人種も風土も超えた神聖も神秘性も感動と共に伝えてくれるものなのだ。それを受け取る事を最初から拒否する如き姿勢がいただけない。そこには「私には感受性が欠けているのではないか」という怯えを隠し、別の理由で武装し「私、お仕事出来るオンナなんですから、これが私のスタイルなんです」と押し通してしまう、キャリアウーマンに良くある虚勢が見え隠れしている。


昔・・朝日新聞で連載していた「世界名画の旅」が読みやすく、内容も受け取りやすかったのは、あくまでも中立的な目で絵とその周辺を見る文章だったからだと思う。


「分からない」なら、知ったかぶりで本など書くな・・だ。


にほんブログ村 本ブログへ



貴方の仮面を身に着けてHP

| コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月15日 (金)

細江英公の世界

三島由紀夫の写真集「薔薇刑」の写真家と言えば「嗚呼」と思う人もいるだろう。暗闇に一瞬だけ浮かび上がる心地良い悪夢があるとすれば、きっとこんな感じだろう。そんな写真である。


写真は一瞬を切り取るが、組み合わされて別のものになる場合もある。だとしても撮影された肉体は、すでにその時点から時を経ており確実に変化している。成長であろうと退化であろうと、変化しているのだ。


永遠はないのに一瞬はある。
そしてないはずの永遠の影だけが、写真の中に残るのだ。


ないはずの影が語り出すのは、元の形でも精神でもなく、まったく別の次元の言語なのだ。三島由紀夫の身体は理想的な美を持ってはいない。にもかかわらず、そこにあるのは何らかの形の美しさなのだ。


その様に、切り取られた一瞬は、饒舌で広大で、複雑で深遠だ。一枚の写真の前で私は道を見失い、迷子になって途方にくれる自分に気がつく。蝕まれた醜い肉体に向き合う毎日の中で、何物の残せぬ無為の中で、あがく事すらしない自分の傲慢さが、そこに映し出されていく。


私は写されていないのに、その写真は私を写している。


観る者の心の印画紙に、データに刻み付けられていく己自身。どんなカラクリがそこにあるのか、解き明かすのに難しい言葉を並べるより、まずは写真の前に立つべきだろう。白と黒の鏡が、向こうから覗く大いなる目を映している錯覚に陥る。


にほんブログ村 本ブログへ



貴方の仮面を身に着けてHP

| コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月13日 (土)

親と子と兄と弟

「燃える指」では、マサトと幸彦という親子と竹生と三峰という兄弟が、話の重要な横線のひとつでもありました。「金糸雀は二度鳴く」でも、義理の父親である朱雀と和樹の関係、朱雀と篠牟と御崎という三兄弟の絆が、物語に深く関わっていきます。

朱雀は早くに両親を無くし、ずっと弟達とも離れて暮らしています。家族のない男と、父のない和樹の心の交流も、書けるだけ書いてみたいと思っています。

| コメント (0) | トラックバック (0)