「貴方の仮面を身に着けて」のmenesiaの小説連載用の場所です。
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小説用まとめサイト更新のお知らせです。
「社長の息子 第7回」まで更新。
久しぶりにTOPの写真も変更致しました。
モスクワのプーシキン美術館の内部です。
いつもお読みいただいてありがとうございます。鍬見の物語の続きも書きたいのですが、余裕がなくて後回しになっております。拓人が落ち着いたら、彼の恋がどうなったのか、書きたいと思います。
今後ともよろしくお願い致します。
menesia
「お帰りなさいませ」
玄関で出迎えたのは、品の良い老紳士だった。朱雀は拓人をそっと下ろした。
「大丈夫かね?」
拓人は頷いた。朱雀は拓人の肩に手を置いた。
「この子が拓人だ、桐原」
朱雀は拓人の方に身をかがめると言った。
「桐原はこの屋敷の執事なのだよ。解らない事は彼に聞くといい」
桐原は拓人に頭を下げた。
「お部屋までご案内致します」
拓人の荷物はすでに部屋に運び込まれていた。学校の制服と鞄はクローゼットの中に収納されており、拓人の為に柔らかいネルのパジャマと新品の下着と部屋履きまで用意されていた。
「急拵えの部屋で申し訳ございませんが、本日はこちらでお休みを」
桐原はそう言って下がった。拓人は一人になると疲れを覚え、安楽椅子に腰を下ろした。柔らかい椅子に身をまかせ、拓人は室内を眺めた。拓人の住んでいた2DKの部屋をすべて合わせたよりも広かった。桐原は急拵えと言ったが、室内は拓人の見た事のない豪奢を漂わせていた。薄い金色の覆いのかかった寝台、黒檀のテーブル、硝子の花弁を組み合わせたようなスタンド、書斎机の上にはペン立てとインク壷。艶やかな深緑色の分厚いカーテンが引かれ、窓は見えない。壁に張られた織物の細かい模様を縁取る金糸や銀糸が、古めかしいシャンデリアの光を鈍く照り返していた。どれもが時代がかって、この洋館にふさわしく思えた。
拓人は背広のままだった。疲れたような興奮したような、落ち着かない心持ちでいた。
「拓人、入っていい?」
柚木の声がした。
「いいよ」
柚木が入って来た。柚木の顔を見た途端、拓人はほっとした。柚木は白いシャツと砂色の木綿のズボンに着替えていた。柚木はグレイのスウェットの上下と身に付けているのと同じようなシャツとズボンを抱えていた。
「これ、僕のだけど使って」
「ありがとう、助かるよ」
柚木はクローゼットにそれらを仕舞いながら言った。
「百合枝さんが一緒にお茶をどうかって」
「百合枝さん?」
「朱雀おじさんの奥さん。この屋敷は百合枝さんの生まれ育った場所なんだ」
拓人は両手を広げた。
「この格好でいいの?」
「いいと思うよ」
並んで廊下を歩きながら、柚木は拓人を気遣うように尋ねた。
「気分はどう?腹減ってる?」
「柚木の顔を見たら、ちょっと安心した。腹は・・そうだね、さっきサンドイッチ食ったけど、まともな飯が食いたいな」
「僕も安心したよ、拓人が元気で。百合枝さんに挨拶したら飯を食いに行こう。津代が用意してくれてる。津代の飯は美味いよ」
拓人が尋ねる前に、柚木は教えてくれた。
「津代は台所の仕事をしてる。昔は百合枝さんの乳母だったそうだよ」
廊下のつき当たりが百合枝の部屋だった。その部屋は、門の前で屋敷を見上げた時、特徴のある緑の窓が印象に残った部屋だと拓人は気づいた。柚木は礼儀正しく扉を叩いた。扉を開けたのは、黒く長い髪を後ろに束ねた浅黒い精悍な男だった。男の態度には柚木と拓人への敬意が感じられた。
「百合枝さん、拓人を連れて来たよ」
柚木が言った。柔らかな色に満ちた部屋だった。女性らしい香りがした。部屋の奥の椅子に一人の婦人がいた。ゆるやかに巻かれた栗色の髪が肩に落ちていた。その肩には幾重にも淡い色のショールが巻き付けられ、ショールの下から覗く薔薇色のスカートは床に届いていた。
「貴方が拓人ね。逢えてうれしいわ」
優しい笑顔が拓人に向けられた。拓人は恥ずかしくなり、口の中で「どうも」と言って軽く頭を下げた。拓人の母と同年代だろうが、笑顔も声も若々しく可愛い。あまりにも可憐で何処か守ってやりたくなるような女性だった。朱雀もきっと彼女を大切にしているに違いないと拓人は思った。今は百合枝の側に控えている先程の浅黒い男も、百合枝をとても大切に思っているのが見て取れた。
「二人とも、おかけになって」
拓人は柚木と並んでソファに腰掛けた。ソファの前の卓上にはお茶の用意がされていた。女主人に似合いの優雅な水色と金に縁取られた茶器と銀のポットに砂糖壷、菓子の盛られた皿が並んでいた。
「千条、お茶をお願い」
「はい」
千条は注意深く二人の茶碗に、銀のポットから茶を注いだ。
(彼も”盾”なのだろうか)
拓人は思ったが、尋ねる事はしなかった。今はその方面には関わりたくなかった。
拓人は和やかな時間を過ごした。香り高い紅茶と焼菓子が美味かった。柚木と百合枝との会話を聞いていると、柚木は百合枝を母というよりも姉のように思っているらしかった。柚木は仏蘭西語を百合枝に習っていると言った。
「拓人も一緒に習えばいいよ。おじさんの息子になったら、ここに住むのだろうしね」
拓人は戸惑った。
「まだどうなるか解らないよ。社長が本気で言ったのどうか、俺には解らない」
百合枝が言った。
「朱雀が言ったのなら、本気よ」
「そうなの?」
「あの人はそういう人だから」
「貴方は嫌じゃないですか?俺みたいなのが家族になって」
柚木が口を挟んだ。
「拓人は良い奴だよ、百合枝さん」
百合枝は柚木に微笑した。
「そうね、そう思うわ」
そして拓人にも笑顔を向けた。
「素敵な息子が増えてうれしいわ」
(つづく)
車の中で朱雀に聞かされた話を、拓人はその場ですべて理解したわけではなかった。太古から続く『奴等』との戦い、母親は悪鬼と呼ばれる化物になってしまった事、朱雀達はあの化物と戦う者達である事。解っているのは、自分が天涯孤独になってしまったという事だけであった。
不安な気持ちがそのまま口に出た。
「俺は、どうすればいい?」
朱雀の深く豊かな声が、拓人の耳元で聞こえた。
「私の息子になればいい」
拓人は驚いて隣の朱雀を見た。その端正な顔には、先程の戦闘の跡はみじんもなかった。初めて見た時と同じ穏やかな笑みがそこにあった。
「その為に来たのだろう?」
すがりたくなる思いをこらえ、拓人は言った。
「でも貴方は俺の親父じゃない」
あの時、かつて母親だった化物は言ったのだ。拓人の知っている声とは似ても似つかぬひび割れた声で。
「あいつがお前の父親であるものか。この女が出まかせに言ったたわごとよ。都合良くこの男は我らが敵。連れて来てくれて助かったよ、お前は親思いの良い子だね」
わざと母の顔に戻り、化物は高笑いした。
朱雀は鷹揚に頷いた。
「そうだな、今までは。これからなればいい、私の息子に」
拓人は目を丸くした。
「本気?」
朱雀は微笑した。
「和樹も柚木も、実の父は私ではない。だが今は私の息子だ」
朱雀は拓人の頭越しに柚木を見て言った。
「そうだろう、柚木」
「はい」
柚木は答えた。朱雀は拓人に視線を戻した。
「血の繋がりはなくとも、情が通えば親子になれる。キミにはまだ保護者が必要だ」
青く甘い香りがした。
「俺で、いいの?」
「私が望んでいるのだ」
柚木は二人を見ていた。
(情が通えば親子になれる)
柚木は心の中で繰り返した。それはかつて柚木と義理の父・忍野を斤量が評した言葉だった。
車は瀟洒な鉄の門の前に停まった。とっぷりと暮れた中であっても、大きな屋敷であるのが拓人にもおぼろげに感じられた。車を降りた途端、拓人の足がもつれた。柚木が素早く手を貸した。夢の中にいるかのように、拓人は足元が覚束なかった。朱雀が拓人を抱き上げた。
「さっそく父親らしい事をする機会をくれてありがとう」
朱雀は拓人を軽々と玄関まで運んで行った。
(つづく)
セバスチャンが廊下に出るとサギリがいた。
「神内はカナを迎えにいったわ」
「彼女、戻ってくるかな」
「わからない」
「君にわからないなんて」
「イレギュラーな事が多すぎるわ」
「何かが変わろうとしているのだろうか」
「出来れば、良い方に変わって欲しいわね」
「マサトも子供を持つなんて初めてだな」
「ええ」
サギリは何かを払うようにかぶりを振った。
「今は出来る事をしないと。迷っている時間はないわ」
「では、僕は行くよ」
セバスチャンは家に戻った。恵美子はいなかった。初子の葬儀の為に実家に戻ったのだ。表向きは心臓発作だった。
誰も本当の事は知らない。恵美子にも教えない。彼女を手放そう。そうすればアナトールは彼女を狙わなくなるだろう。そうなって欲しい。遅いかもしれない。僕の過ちが広げた災禍は、僕の弱い心の表れだ。僕はアナトールを裁く資格はない。僕もまた分断された者なのだ。この身体と心は、もはや一緒にはいられない。心だけ、僕は心だけで旅立とう。壁を永遠に守る為に。誰かを守れるなんて思っていない。だから誰も僕はそばに置かなかった。壁を守る役目を自覚した時から、僕はそれだけを考えて来たはずだった。なのに・・少しだけ、心が揺れた。それがこんな結果になるなんて。
”壁”がセバスチャンに異変を伝えて来た。
(あれは・・)
アナトールの気配がする。彼はあそこまでは来られないと思っていた。彼の力が増している。彼はどこに行こうとしているのだ。あの向こう、僕の絆を辿ろうと・・
(いけない!)
恵美子の領域に行こうとしているのだ。アナトールを追って壁を離れる事は壁を放棄する事だ。そうだ、この動揺をアナトールは待っている。僕はここにいよう。『奴等』は彼女には手は出せないはずだ。それだけの用意はさせてある。初子の最後の守護もまだ生きている。今は壁を守ろう。それだけが僕の望み。
恵美子が暴漢に襲われたのは、その夜だった。
アナトールは笑った。僕は現実を生きていないが、この世界の悪意は良く知っているよ。君の得意な世界で戦う気はないよ、セバスチャン・・異人達はね、まだ人間の時の欲望を覚えている。心のたがが外れた分だけ、いっそう激しくね。だから君の大事な人は、ボロボロにされてしまうよ。命を奪う事はしない。僕の望みは彼女の心を壊す事、君のそばに行けないように。『奴等』の敵となれないように。壁はもうお終いだ。愚かな血筋の末裔がその役目を忘れた時から、それは始まっていたのだ。僕らですら、きっかけに過ぎない。戻れないよ、もう・・君に彼女は救えない。僕と同じように。君は誰も救えない。
壁が崩れ、『奴等』がやって来る。
カナを連れ帰った神内は、最悪の事態を予測していた。”壁”が崩れる。セバスチャンに異変が起きていると、壁全体が告げているのを感じた。セバスチャンが乱されている。他の者にも余力はない。一気に押し寄せる『奴等』を越えさせてはならない。おそらくこれがカヅキの最期になる。せめて数年の時間を稼ぎ、次の力を待つしかないのか。壁を固定する手段を探すしかないのか。様々な思いの中で、神内は戦場へ向かった。青い剣が『奴等』を切り裂いた。彼は彼の役目を全うする、出来る事はそれしかなかった。
長い戦いだった。
神内達は『奴等』を押し戻したが、カヅキは還らず、マサトも眠りに着いた。カナは何処へか消えた。残ったのは神内とサギリだけだった。勝利であるかどうかは、誰にもわからない。今は危機は去った。しかし平穏が保たれるのはわずかな時間でしかないかもしれない。
「セバスチャンが・・」
サギリは神内に彼の死を告げた。
彼は自室の床に横たわり、冷たくなっていた。最期の儀式が完了したのだ。彼はその命と引き換えに自分と初子の二人分の壁を永遠に封印したのだ。彼の傍らに恵美子がいた。彼の遺書がその手に握られていた。アナトールの悪意は彼女に届かなかった。身体の傷は心にまでおよぶ事はなかったのだ。アナトールの思った程、彼女は弱くなかった。
アナトールは道端に立ち、セバスチャンの部屋の窓を見上げていた。
ねえ、セバスチャン・・今度こそ二度と君は僕の名前を呼ぶ事はなくなった。君は僕以上に誰かを愛する事を怖がっていた。もっと早くそれに気がついていたら・・残念だよ。僕らはお互いにすれ違い、壁の両側に対峙しせめぎ合う間柄になってしまった。君の気配が残っている世界を、僕は今少し愛しく思うよ。愛しいから、いつかきっと僕らの物にしたい。綺麗な夢は見ないよ、見るつもりもない。
閑静な住宅街の片隅にピアノの音が流れていた。鎮魂歌の調べがレースのカーテンに閉ざされた窓からあふれていた。まるで世界を満たそうとするかのように。誰にも知られぬ哀しみを覆い隠そうとするかのように。
(つづく)